2012年の「サントリーホール スペシャルステージ」は、
同世代の演奏家のなかでもきわめて独創性に富み、
その際立った音楽性と楽曲の解釈でトップ・ヴァイオリニストとして
活躍するギドン・クレーメルが登場します。
彼が熱望した共演者たちとともに、クレーメルの世界をおとどけします。
クレーメルは現代を生きるカリスマティックな音楽家である。クレーメルがヒットチャートのクラシック部門で上位を占める売れ筋だからではない。経済規模からいえば慎ましいこの領域で、それを誇ることにはどこか虚しさがともなう。クレーメルは、かつてカザルスやロストロポーヴィチが発していたオーラを継承したという意味でカリスマティックなのだ。 若き日のクレーメルは「東」の逸材だった。圧倒的なテクニックで、いくぶん奇妙なレパートリーを紹介する青年。「西」の聴衆は、ある優越感をもってこの違和感を消費していたのかもしれない。しかし、この違和感は、「東」や「西」という表現がセピア色を発するようになった今でも、クレーメルとともにある。あまりに周囲にあふれているがゆえに、もはや誰も疑問にすら思わない芸術家のスターシステム。これに否応なく巻き込まれながらも懸命に抗おうとするクレーメルの姿勢が、われわれの平穏な日常に刺を立てるからだ。クレーメルの美しくもあり耳障りでもある音色に触れるとき、芸術とは何だったのか、いま何であり、何になりえるか、忘れかけていた問いがよみがえる。 今回の日本公演でも、クレーメルは彼の同志たちとともに、心地よさに終わらない、強烈な問いかけをもった作品を演奏する。モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、フランク、チャイコフスキー。これら18、19世紀の「メジャーな」作曲家が取り上げられる場合でも、プログラミングされるのは各々の晩年の作品が中心であることは印象的だ。無垢ではなく痛みのある喜び、切実なる喜び。それは他の作曲家の作品でも同じこと。バッハ、イザイ、バルトーク、ショスタコーヴィチそして、グバイドゥーリナ。それらのメッセージは、誰もが気づかないふりをして眠らせている心の一部に強く訴えかけてくる。
藤田 茂(ふじた しげる・音楽学)